昭和47年12月03日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
人間が人間を助けると言うのではなくて、人間は信心をさせて頂いてその信心によって、人を助けると言う風に頂かなければいけないと、どこまでも信心に寄ってと言う事だと思うですね。病気災難の時神に助けてもらうのであるからとこう仰っておられることは。勿論信心によって病気災難お時助けて、病気災難と言う事はもうと言う事だけではありませんがね。一切神様のおかげで助けてもらうんだ、神様のおかげで立ち行かせて頂くんだと言う事だと思うですね。
ですから私共が信心をさせて頂く者の責任においてもですよ、人を助けることが出来ると言う事を有り難いと心得て、信心をさせて頂かなければいけないと思うですね。例えばあのう尺八寸と言われるあの尺八ですね。それをまぁもうあれがいくつか穴がほがしてある。それをなら私共の様にぜんんぜん稽古しないものが、あれをいくら吹いたところでです。音色はでませんけれども、それを例えば稽古をした人達が吹きますと、もうそれこそ妙なる音色があの尺八の中から、いわゆる尺八寸の竹から。
どうしてこんなに美しい綺麗な音色が出るだろうかと言う程しの、音色が出て参ります。様々な曲目を覚えれば覚えただけ、様々な曲を言うならば吹きこなすことが出来ます。それはその尺八があるから誰でもあんなに良い音色出ると言う事はないんでしょう。人間だから誰でも人が助けれれると言う事じゃないのです。その人間が例えば信心によってですね、自分自身が助かって来る自分自身の心が助かって来る。
昨日の御理解で申しましたですね。生神とは神がここに生れると言う事であってとこう仰る。だからお道の信心者信奉者はもう全部この生き神を目指さないといけないのだと。その生神と言うのはね、いわゆる自分の心の中を自分で、拝みたい程しの心の状態になる事の稽古なんです。ここに神が生まれると言う事はそう言う事なんです。自分の心の中からそれこそ尺八の音色にも例える程しの良い心の音色というものがです、有り難いなぁ勿体無い事じゃなぁと、自分自身の心の言うならば変化心が変わっていく。
信心のあった時なかった時の状態というものがです、この様にも変われるもんだろうかと言う訳です。そういう心がですそういう時に和賀心から神が生まれたのである。生まれるのである。ですから一生懸命いわゆる稽古をしなければです、始めからなら尺八さぁこういう良い音色がですから吹きなさいと言うて、良い音色が出るはずはないでしょう。譜音があるからこの通り吹きなさいと言われても、始めから吹ける人はないでしょう。
だから人間は信心をさして頂いてその信心の御教えによって、自分の心の中から神を生みなして行くと言うが、いつも自分の心んの中に感ずるところのいわゆる心のリズムというものがです。我ながら有り難い。我ながら尊い。言うならば心の中にリズムを感ずるようなです、稽古が信心の稽古です。ですからんなら例えばその吹き習うたというて、ただ音色だけというだけではつまらんでしょう。
その楽譜というものがあってその楽譜道理に、まぁ吹かせてもろうて初めて一つの曲が、その音色と言うかねがこのように尺八の中から流れて出て来る様に、妙なる音色が出て来るようにです、教祖様はね、ご自身が生き神と信心とは、和賀心が神に向こうて行く神様に向うて進んでいく。生神とは神がここに生まれると言う事であってと、自分の心の中から生神を生みなしておいでられる。
いわゆる実意丁寧神信心からそういう様々な、なら曲が流れて出て来る。ご自身がそれを体得されて、それでこういう心の状態にならなければ、こういう修行をさして頂かなければと教えて下さるのが御教えなのです。ですからその楽譜通りにです手を動かし吹かせてもらわなければ、いうならば良い音色は出て来んのです。とてもやはり教えを守り教えを行じなければです良い音色は生まれません。
良い音色が出て来る、一曲吹き習うた二曲吹き習うと言う事になると、もういよいよ楽しゅうなってくる。それこそ虚無僧じゃないけれども、自分の吹き鳴らす尺八の音色に、自分自身が聞き取りながら、修行している楽しい事である。金光様の御信心はそうである。自分自身の心の中から奏でられるところの、その自分の心というものをの、その音色を聞き取り聞き取り、それを有り難いなぁ勿体無い事じゃなぁと、事態にはなんと相済まんちゅことであろうかと言う所からです。
信心のいわば有り難い境地が生まれて来る。楽しゅうなってくる信心が。それがどうでしょうか信心とはとにかく御利益を受ける事だと言う事、で終始する人があるとするならそれは本当の信心と言う事にはならない。それでは今日ここにある人間は人を助けることが出来るという、人間は人を助けることが出来ると言うのはです。自分の心の音色のような音色をです、この人もいわゆる甲の人も乙の人も丙の人も、そういう心の状態になれたらその人のそこに幸せ、いわば助かられるということなんです。
ですから自分自身が本当に助かったら、それを自分の周囲の人にもそれを伝えなければ居られない。それが助けるところの糸口になる訳。そこからあなたのおかげでと言う事になる。成程人ひとり助ければいち一人の神と仰るが、なるほどそう言う事が感じられますですね。人を一人導かせてもろうて、自分自身が助かっておる、その助かっておる状態をです、人に話してその人がまた助かって下さると言う事になればです、なるほど本当にあなたのおかげでと言う事になるのですから。
人ひとり助ければ人ひとりの神と言う事が言える。10人助ければ10人の神と言う事になるのです。だから信心さして頂く者は、いや金光様の御信心さして頂く者は、もうすべてそこんところに焦点が置かれなければならない。もちろんその有り難いと言う心、それを教祖は和賀心とも仰り、和らぎ賀ぶ心とも教えて下さる。その和らぎ喜ぶ心にいうなら普通で言うおかげ、いわゆる御利益というものはもう供のう来るのだと。
成程これは牛馬で出来る事じゃありませんね。牛やら馬は自分の子供がそこに水に溺れておるというても助ける事は出来ない。人間がそれを見ると助けてやる。形の上に置いてです例えば、金のない人に金を貸してあげる。重い荷物を持って居る人を少し持って助けてあげる。そういう意味のごとを助けると言う事にもなるですけども。ここで教えられるのは私は心が助かると言う事だと思うんです。信心によって自分の心が助かる。そういう心の貧しい人こころの中に苦しみ難儀を感じておる人達を助ける。
ためにはまず自分自身が助からなければならない事が分かる。自分が助かってそして人を助けて行かれると言う事が、有り難いと心得て信心すると言うのが信心者の全てがです。そういう心の状態にならなければいけない。もう私だけ助かれば良いと言う事であってはならない。先ずは自分自身が助からなければならない。自分が助かっていくその過程と言うか、自分がだんだん有り難うなって行くと言う事が有り難い。
ためにはどうでも一つ尺八を吹き習わして頂くためには。楽譜に忠実にならなくてはならないように、先ず吹く事からそれからいろんな曲を吹奏すると言うと言う事になって参りますと。やはり楽譜というものがいる。有り難うならせて頂くたいと思うなら、有り難うならせて頂けれる教えを頂いて、その教えを行じなければ有り難くはなれんのです。有り難いと感じるその心が助かっておると言う人間が。
私は昨日阿倍野の教会から送って頂いておる、このう御本を読ませて頂いて、まぁ読んで最後にこう言う事を最後に書かせて頂いた。一番最後のところに何回か。「お道の教師が天職と言うも、それに適するまでによく鍛え抜かれておられると思う」と書いて。勿論これは甘木の先生の事なんです、やっぱりあちらの先生当りはね、お道の教師になるべくしてなっておられるのだと、というのではない成程それを生き甲斐として天職とし、人が助ける助け助かると言う事をです、もう天職として御用なさっておられました。
ですから始めから金光様の先生じゃなかったと言う事です。私共にもやっぱし同んなじ事が言える。もう私共はもうこれは子供の時から考えておった事は、もう私はよい立派な大きな商売人になりたいというただ一念でした。もう根っからの商売が好きでしたから。甘木の先生だってそうで、始めは学校の先生を目指されれて師範学校にいっとられます。それが天職とまで高められておるためにです。
その例えば人を助けることのために、それに適するようにです。適するまでにはもうよくもよくも、様々なお鍛えを頂かれておられると言う事です。これはならお道の教師だけじゃない。今日の御理解を頂きますとです、人間んは人を助ける事が出来ると言うのは、ただ形の上で、例えばなら助けると言うのではなくてです。信心によって助ける。信心さして頂く者は、病気災難の時に神に助けてもらうのであるからとおっしゃっておられるところから見ると。
いわゆる信心をさせて頂く者は、自分自身が信心によって助かってそれを、助けることが出来るのだ、だから人を助けることが出来るところまで、自分の信心というものを高めていかなければならない。そのためにはです、様々な神様のお鍛えがあるのですから、例えばこれは私にしても阿倍野の先生でも、その辺のところをよく似ておると思うんですけれどもです。お若い時から様々な問題があった。
ここの御本の中に言っておられます様に。私の前にはどれだけ沢山の吉良殿が現れたかわからないと言っておられます。忠臣蔵に出て来る吉良上野介の事なんです。それを吉良上野介と仰らない、吉良殿と言うておられます。その中にはね年寄り若い人男女もう様々な形で、私の前に吉良殿がいっつも現れておる。もうそれっこそもうそれこそ、その浅野内匠頭じゃないけれどもです。尋常だたんでも及ぶほどしのような,難儀の中にあってもね、それを一切もう有り難いで受けると決め込まれた。
いうならばこれは神様が私をこの様にして、鍛えて下さるんだと言う思い込みを、いよいよ強うして行かれたと言う事なんです。私を鍛えて下さる。そういう意味でですよくもあれだけ鍛え抜かえられた、いうならば姿が現在の阿部の教会の御比礼だと、私は思うです。ですからもうその吉良殿が現れて参りますとです、もうこちらもカッカ来てから信心してることも忘れてしもうてから、教えを頂いておる事はもうどこえやら。
そして逆上するように、切ってはならないところで切って、抜いてはならないところで抜いて、そのためにまた悔いを残さなければならない、何時迄も信心が本当の信心になって行かないと言う様な事ではです、信心さして頂いている者の値打ちがない。信心さして頂く者の値打ちというものはです、吾が助かると同時に、人が助かって行く事のためにです。奉仕さして頂けると言う様な、私は信心が身に付いてこなければ、信心を頂いておる値打ちはない。
ただ一般で言う人を助けると言う、浅い意味合いの上に於いてですよ、なんかって言えば金がないと言うのがあるけん金を貸したやる。助けた事になりますけれども、それは本当の助かりにならんのです。情けは人の為ならず、等と言う様な事が言うけれどもです、情けは人の為じゃない自分の為にもならると言う事なんですね。けれども私金光様の御信心をさして頂くとですそうじゃない。情けは人の為にならない。
自分のためにも為にならないと言う事です。只いわゆる情け人情ですね。本当にその人が助かる事の為に、私共は思いをそこに走り又は、形に表して行かなければいけんのです。先日ここのあのう暖冷房関係を請け合って、ここの御信者さんであります、杉山三雄さんがあのう請け合っておる、この月末にお金を200万ばっかり欲しいと、まぁ未払いになってまだ仕事が全部終わっておりませんから払ってない。それでそのうまぁ委員長のところに電話が掛かって来たからというてここえ言うて参りました。
で高橋さんに、ならそれはもう払うといて下さい。取りに来ると思ってました。けれどもなかなか忙しいごたるふうで、けれども月末どうでも内にゃ取りに来るでしょうからという、けれどもまぁ高橋さんあぁたがどうせ帰んなさるとじゃから、あのう持って行ってやって下さい。と言うた後にです。はぁっと気が付いたのが今の事でした。それこそ情けは人の為ならず。自分のために何と言う事なんですけれどもその言葉が。けれども情けは人のためにもならなければ、私のためにもならないと言う事なんです。
例えば月末と言う事もありますから、忙しかっても例えばここの信者でありますから、月末のお礼参拝ぐらい出来なければならない。そうして支払うた方が、彼もおかげ頂くならば、私自身もおかげを頂くところであった。だから高橋さんこりゃ本当はこりゃ情けは人のためならずというけれどもです、自分のためにもならんというけれども、情けは人のためにもならんならない、自分のためにもならないですよっと。まぁ申しましたけれども、まぁ結局まぁ持って行って、払って頂いたんですけれどもです。
こう言う様な事をです、いかにも親切でそう持って行ってあげたり、その時喜ばれた事がもう人を助ける様な私は考え方は、金光様の御信心では禁物だと思うですね。どこまでもいわゆる信心によって助かる。だから今日その手前のところで、目先の助かりでなくて真から根から助かることのためにです、私共は私共自身が真から助かって真から助かる事のためにです、私共はまぁ奉仕させてもらう、そういう生活が私は信心生活だと思う。人間は人を助けることが出来る。
だから助ける事のためのです私は修行というものが、自分自身が助かる事の為にも、いわば鍛えられた上にも鍛わなければならない。稽古した上にも稽古しなければ良い尺八の音色は出らない様に、そこん所の稽古が本当に出来た人の姿こそがです、例えば甘木の先生の場合の様なものではなかろうかと思うです。それにはやはりもう私の一生はもうこれで行こうと。それこそ降っても照っても例えば自分に都合の悪い事があっても、雨でも嵐でもです一切を神様の御都合であり。御神愛としてそれを頂いて行こうとする心。
そこに心はいやがうえにも鍛えられてくる。どういう雨にも風にもめげない元気な心が生まれて来る。しかもその鍛えられたその心の中からはです、まぁようもこう言う所を、有り難い勿体無いで通らして頂けると言う事は、何と有り難い事だろうか。もうそこに神が生まれておるのである。だから私は人を助けると言う事はそんな簡単に本当な意味において助けると言う事はです。自分自身が本当に助からなければならない。ならそれにはですまぁこれをまぁみやすう言うならです。
私がもう本当に願っても願っても、思い切って願っても左左と願っても右と言う様にです。自分の思いというものは一つも成就しない。そこでこれは神様は私大坪総一郎に願いを持っておられるなと、そのためにこの様な修行をさして下さるであろうから、よしこれから先どの様な事がっても、それを黙って受けさしてもらおうと、もうどんな事があっても。それは損になる事であろうが、恥ずかしい思いをする事であろうが。
どういう問題が起きて来ても、それを合唱して受けさして頂くと言うお約束を、神様とさして頂いた。いわゆる決心が出来た。そこから一切を有り難く受けさして頂くと言う事になった。今から考えてみてです、そう言う事が難しい事ではなかった。ただ受けてさえ行けばよか、もう受けると言う腹を決めたんだから。決心がつかないところにそういう問題がいやでございます、これは私は駄目ですとこう言う事になるのであるのであって。受けると決心さして頂いたらね、有り難く受けさして頂く事が出来て。
しかもそれが本当の信心とは、こういう生き方だと言う風に段々分かって来た。そこに私がもうどういう難儀が私の前に起こってきても、その難儀を合唱して受けるんですからもう私し自身助かってる。そういう助かりが段々できて来るようになったら、私だけではなく私の周囲周辺に、沢山の人が助かって来る様になった。始めから私は金光様の先生になろうともなぁあんとも思うてなかった。なるほど現在ではお道の教師と言う事がです、取次者としてそれを本当に天職だと思うておる。
それまでにですお道の取次者に適することのためにです、神様は私を鍛えて鍛えた上にも鍛えて下さった。それこそ甘木の先生じゃないけれども、私も今から振り返って見るとです、成程あの時にゃ稽古をつけさそうな顔に見えたり、そういう仕打ちを本当にひどいと思うたけれどもです。今から考えてみるとやはりこれは吉良殿とどのを付けなければおられないほどしのおかげ、ようもあん時に刀を抜いておかんで良かった、いわゆる黙ってそれを受けてきたと言う事が、有り難い事であったと気付かせて頂いた。
そういう私は助かり方を自分自身がしなくしてです、人を助けると言う事は出来ません。だから大変難しい様であって決心をしたら難しい事じゃないですね。難しい所かそれがもう有り難うして楽しゅうして、この調子で行きゃいよいよ私でもこりゃ生神様に成れるぞと言う様なです、楽しみが生まれて来る。いわゆる生きがいというものが出て来る。一生を只人に迷惑をかけっぱなし、神様の御恩徳なんかは全然知らなかった。
知らないままに天地の大恩に対する、お礼もお詫びも申しあげる事なしに、一生を終わって行くと言う様な人達が、どれ位沢山おるやら分らない。そこで私共は天地の大恩を分らしてもらい、神様のおかげを分らしてもろうてです。自部自身が頂いて有り難いとわからして頂くところまでです。そしてそこに難儀な人がある、その難儀な人を私はかく信心してかくおかげを頂いたと、お話をしていけれる、それが本当の人を助けると言う事になるのです。
いうならば安っぽい親切とでも申しましょうかね、安っぽい情けをかけてかえって相手もおかげを頂けず、それは自分自身もおかげを頂けない、その情けは人の為ならずと言うけれどもです。自分のためだと言うけれどもです、決して安っぽい情けであってはです、自他供のためにためにはならない。信心によって心底から自分の心が助かる。どのような事柄であっても、それを神様の御働きとして、御事柄としてそれを受けていく所の稽古をさしてもらうと言う事には、ここに決心がいる。
自分自身の心がね自由自在に、有り難い勿体無いと使えれる自分の心。それが生神である。自分信心のない信心のまだ浅い時には、自分の心一つがままにんらない、ここで有り難いと思うてみても、神様は助からん御用せんならんと思うても、心はたちまち身に付いておる、自分で自分の心一つが自由にすることが出来ない。教祖金光大神は人間の心、自分の心を自由になる様に、有り難い有り難いと言われたり、思うたりするような道を説かれたのであり、教えられておるのであります。
だからそういう稽古させて頂くためにです、ここでは色々様々なの問題が神様のにおん働きであり、だから御事柄なのであるのだから、それを却ってそれは自分の都合の悪い事であっても、合唱して受ける稽古を本気でさして頂かにゃいけんという風に頂きます。そしてそれを見越して行く所の事で、この事は受けられたけれども、この事は受けられないと言った様な事ではなくてです。こうすればと良い事は受けられたけども、次に現れる苦が伴う事は受けられない、と言った様な事では何時までたっても誰でもある。
それではもうどの様な年寄りも助かっている、もう心は真っ暗い、それを頂きますとそれ( ? )だして頂きますとです。本当に実際ことで( ? )に立てなければおられない、甘木の先生がそれこそ黙って治めるおられないほどしの事柄が、もう問題があるとそこを頂きぬかせて頂くと言うおかげを頂いた時に始めて人を助ける事が出来る。ならそう言う様な修行とかそういう考え方と言うのは、成程牛や馬では出来んのです。人間は誰しも、その気になれば誰しもが生神に成れるのであり。
誰しもがそういう自分自身が助かる人も助かると言う様な、助ける力というものを頂けれるのは人間だけなんです。その人間にしかできないそういう素晴らしい事をです、知らんで一生を終わったり、少なくともただ信心している者は、ただ御利益を受けると言う事だけに、( ? )しよる様な事ではね、自分自身も本当に助かって行くと言う事である。その助かると言う所までにはとうてい( ? )の事になります。自分自身が段々助かって行く参りますとです。
私はよう思うです、本当に自分自身がこの様に助かって行っておると言う姿をです、本当に今までの沢山の人にね、もう本当にもう( ? )全体もうそれこそ( ? )それこそ金光様の信心をすりゃこの様なおかげが受けられると言うて歩きたいごと思う。こりゃね、出る時そういう衝動にかられた事がある。けれども金光様の信心がごこまでも( ? )に素晴らしい事と頂いて、助けをを求めてくる人達にお取次ぎをする事だけしか出来んのですから。お手引きを頂いて皆さんが本当に助かって貰はなければならない。
そして皆さんが本当に助かって頂いて、皆さんが100人の人が助かって下さればです、100人の人が( ? )ずにね、私はそのせいきょうに対して頂いても信心してもらいたい。そこで皆さんにはただ取り次いで下さらなければならない、そういう責任をですここで日々稽古をなさっている方たちゃ、感じられる位なとこまで信心を高められたら有り難い。先生がいよいよもって自分自身が助かって有り難いと思うてござる。
その有り難いものを皆さんに聞いてもらう。そして皆さんも助かって貰うに留まらずに、それをいわゆる難儀な人達に取り次いでくださる。それを皆さん方はここでこうやって信心を頂かれる。その核心に違わずにならせて頂こうと言う位なおかげを頂かなければならんのに、( ? )皆さんの( ? )すらそれをお取次ぎにより、自分の家族だというだけにまだ与えたといってはいない、今日の事はあなた達自身が本当に助かっていないからだと言う事になるのじゃないでしょうか。
だから助かると言う事はね、ただ今目の前の難儀な事を助けてもらう言う事が、助かりですけれども。今日ここで信心させて頂いて、頂かなければ助かることの出来ない助かり。そういう助かりを私共が自身が先ず頂いて、それを人に伝えて行けるのは人間だけである。人間だけというても、信心さして頂く者だけ、ただ信心さして頂くというても、ただ信心だけではなくて本気でね、鍛えられる事の喜び稽古をさして頂く、楽しみと言った様なものをです。
もう一つ頂かなければいけない。届いておる。尺八の例をもって聞いて頂いたね、お互いが尺八、尺八の世界ならまぁ5尺か6尺の躰である。もう男と女の違うだけである。だから真ん中の花がありゃ意味がある( ? )別に大した変わりはない。尺八を十本並べて吹いたっちゃ変わりはない。けれどもそれを吹く人によってですその音色が変わると言う事。信心もそうです。
本気で私は楽譜をもとに、教えをもとにして本気で教えに忠実に取り組ませて頂くならばです、自分の心からそれこそ有り難い勿体無いものが生まれて来る。そういう心の状態になったら、いわゆる世の中が鎮まる事であろう。世の中が収まる事であろう。世の中の人達が皆んな幸せになって行けれるだろう。と思うたらやむにやまれぬものがあるだろう人の助かりになる働きにまでなって来る。そういう願いを立てそういうおかげを頂けれることがです、生き甲斐を感じれられるほどしの信心をを頂きたいですね。
どうぞ。